また、アーノルドのバトラー評価が否定的なものであったと判断する根拠はこれだけではない。一八四四年頃に執筆された初期の詩「バトラー『説教集』に記す」も、彼が『説教集』に対し、かなり早くから否定的な評価を下していたことを示している。例えば同作品には次のようにある。
《愛着、本能、原理、力、衝動と理性、自由と統制。----かくのごとく、人間どもは、神の調和的な全体を解体し、この我らの生をずたずたに引き裂いてしまう。／ 空しい作業だ！ 深く、広く、誰にも見えないところに、かのおぼろげな王座の礎は由来し、その王座には、人間の一なる本性が、荘厳たる統一性の中心に、女王の如く、独り鎮座している》（AP:42）。この一節は『アーノルド全詩集』の編者アロットも指摘する様に、先に挙げた講義の次の一節と明らかに呼応している（AP:42）。
《…実際のところ、このように入念に仕上げられたバトラーの心理学は全て、…不十分なものである。…彼が我々の本能だとか行為の原理だとか呼ぶものは、実は、極めて不明瞭なものであり、変化するものであり、諸現象と相互依存関係にあるものなのだが、こうしたものをバトラーは、あたかもばらばらで、固定的で、手で触ることのできる物体であるかのごとく捉えている》（AW08:41-2）。だが、アーノルドの著作を詳細に検討するならば、彼が、少なくとも『類比』の宗教哲学に対しては、かなり両義的な評価を下していたことが分かる。前述の講義においても、どの点を評価しているかは必ずしも明示していないが、『説教集』よりも『類比』を格段に高く評価しているという趣旨のことを述べている（AW08:47f）。そしてグラッドストンは見落としているが、アーノルドは七〇年前後の神学をめぐる著作において頻繁に、しかも肯定的に『類比』に言及している（AW08:383）。また、更に注目すべきことに、彼は『類比』を、絶えずニューマン（John Henry Newman, 1801-90）の『教理発展論』（一八四五）との関連において論じつつ、そこからニューマン的なローマ・カトリックの不可謬の主張ではなく、国教会擁護論を導き出している（１）。
スティーヴンの指摘を待つまでもなく、バトラーの『類比』はジェイムズ・ミルの宗教的懐疑だけでなく、他方でそれとは「思想的対極」にあるような様々な護教論を生み出すことになった（２）。本稿はこうしたニューマン、アーノルドといったヴィクトリア期を代表する宗教思想家における『類比』の受容を検討することで、一九世紀思想史の一側面を明らかにしようという試みである。
《私がバトラー主教の『類比』を読んだのは、おおよそこの頃〔一八二三年〕だった。この本を研究したことは…自己の宗教的見解の形成史における一時代をなすものであった。…私に関しては、もしもそこから最も得るところの大きかったことを挙げるとすれば、それは次の二点である。…第一に、神の別々の業の間の類比という観念そのものから、より重要でない体系が、より重要な体系と、摂理的に、もしくは象徴的に結びついているという結論が導かれる。…第二に、蓋然性が生きるための道標だというバトラーの理論は、少なくともその数年後に私が接することになる教説の下において、私を信仰の論理的な妥当性という問題へと導いた。…このように、私自身の考えるところでは、後に空想的で懐疑主義的だと私が非難される原因となった私の教説の二つの原理は、バトラーから来ているのである》（NA:22-3）。モスナーの整理によれば『類比』の議論の核心は「人間と自然に関する諸事実をありのままに検討し、それによって人間の経験を超えた事物の蓋然性を示す試み」（４）であったが、ニューマンがここで示している二つの「最も得るところの大きかったこと」はまさにこれに対応している。すなわち前者はバトラーが用いた「類比」の方法的特質であり、後者はそのような方法を通じて得られる認識の特質を的確に捉えていると言えよう。
このようにかなり早くから『類比』に親しんでいたニューマンが『教理発展論』においてまさにその中心主題である「発展 development」を論じる際に依拠したのは、『類比』第二部第三章の「聖書は、多くの真理を、未だ発見されぬ状態で含んでいる」という議論であった。『類比』同章には次のようにある。
《人々が考えているように、聖書の全体系は未だ理解されていない。従って、「万物が新しくなるその時まで」、そして奇蹟という介入がない限り、聖書が理解されるとすれば、それは、自然の知識が理解されるのと同じ仕方であるに違いない。つまり、学問と自由の継続と進歩によってであり、世間一般が見過ごしたり気にとめなかったりしたような、あちこちに散らばった諸々の暗示に目を向け、それらを比較し、探究する几帳面な人々によってである。というのも、あらゆる進歩は、このようにしてなされるからである。…人類が実に長い間手にしていた或る本が、多くの真理を未だ発見されない状態で含んでいるということ、このこともまた、決してありえないことではないのである。…従って、諸々の事件が、まさに事件とはそのように発生するものなのだが、聖書の幾つかの部分の意味を開示し、確認させるということ、こうしたことが〔神の〕意図としてあるということは十分に考えられることなのである》（BW01:234-5）。この一節からも明らかな様に、バトラーにとっての聖書理解の「発展」とは、あくまでも自然に関する経験的知識の増加との類比において、学問の理性的な進歩の一環として理解されており、それは神学的にはリベラルな所謂「広教主義者」に特有の考え方であった（５）。
だがここで注目すべきことは、若き日のニューマンが身を投じていた高教会派のオックスフォード運動（トラクト運動）の思想は、むしろこうした進歩主義的な「広教主義」に対して極めて批判的であったという点であろう。周知の様に、『類比』の圧倒的な影響の下でニューマンが『教理発展論』を執筆したのは、まさに彼がそうしたオックスフォード運動に疑問を感じ始めてから、最終的にローマ・カトリックへの改宗に至るまでの、いわば彼にとっての精神の危機とでも呼べる時期であった。チャドウィックや塚田氏の研究（６）を基に教科書的な整理を試みるならば、ことの次第は大凡、次のようになるだろう。----当時の英国の神学会には大陸から「ドイツ主義」ないし「プロテスタント・リベラリズム」が流入してきており、その破壊的な「疑問の提起、暗示、懐疑、疑惑、未消化で誇張された批判、歪曲された歴史的比喩」は聖書の記述上の矛盾を暴露することによって、その権威を失墜させる一方であった。こうして生じた「信仰の危機」に際し、トラクタリアンたちは国教会三九箇条第六条「聖書は救いに必要な事柄を悉く包含している」を「聖書は宗教的真理を明白には包含していないが、含蓄的かつ非体系的に包含している」と解釈し、その表面上「隠蔽」された「啓示」を読みとるためには固定的な「カトリック的古代性」としての「原始的委託」が必要で、それは聖書と古伝承をもとに歴史的再構成が可能であるというキーブル（John Keble,1792-1866）の「アングリカン的原理」を支持することによって、当時の破壊的な懐疑主義の流れに抵抗していた。揺らぎ始めた聖書の権威を、古伝承の研究によっていわば補完的に支えること。「その権威の教理においてトラクト運動は、神学における進歩という広教主義者の理論を直接攻撃するものであった。トラクタリアンたちの望みは、広教主義者が放棄したり無視したりしたヴィンセンティウスの基準を再興すること、すなわち、〔単なる〕信仰や仮定ではなく、まさに真の歴史的探究を通じて古代性の中に見出しうる確たる教理の伝統に訴えることだったのである」（７）。
だが、そのような思想運動に深くコミットしつつも、自伝等が示すように、もともと人間の認識能力そのものに対しては懐疑的であり、優れた歴史家でもあったニューマンは、教会史研究の過程で、こうした歴史的方法（事実認識）がダイレクトに宗教的真理（価値認識）を確保し得るというキーブルの発想に疑問をもち始める。そして初代教会の教理の研究を通じて、ヴィンセンチウスの基準の定める確固とした「つねに、至る所で、すべての人によって信じられてきたこと」など存在せず、むしろ教理は歴史の中で変化し発展しているという結論に辿り着いてしまう。こうした懐疑の結実とも呼べる『教理発展論』において、ニューマンは『類比』を念頭に置きつつ次のように述べている。
《…キリスト教の真の観念を歴史に求めようとすると我々を当惑させることになる、教理の明白な多様性と成長…。…本書の執筆に際して依拠した見解は、おそらく、いつの時代においても神学者の頭にあったことであろうし、私の考えでは、ド＝メーストルやメーラーといった大陸の優れた著述家たちが近年に述べている見解である。すなわち、キリスト教の信条や儀式の増加と拡張、それに個々の書き手や教会の主張の変化に伴う多様性----こうしたものは、知性と心情をとらえている哲学や広い領地を統治している政体には、必ず付随する。また、人間精神の本性故に、偉大な諸理念の十分な理解と完成には時間が必要である。霊感を受けた信徒たちによってこの世に一度に伝達されたとはいえ、最高の真理は、それを受け取るものにとって、一度に把握できるものではなかった。むしろそれは、霊感を受けていない精神によって受容され、伝えられ、単なる人間的な媒介を経たが故に、十分に解明されるには、長い年月と深い思索を必要とする。----こうした見解を、発展の理論と呼ぶことができよう》（NE:90）。歴史的世界において不可避に発生する教理の「明白な多様性と成長」。このような認識に立つ以上、「単なる人間的な媒介を経ている」テクストとしての聖書や古伝承から歴史的に再構成されるはずの「原始的委託」によって信仰の正統性を基礎づけ得るとするキーブルの「アングリカン的原理」は説得力を失う。すなわち、絶えざる「発展」がある以上、事実認識としての教義史によって直接的に価値認識としての信仰を基礎づけることには大きな困難が伴うと言わざるを得ない。個々の教義が伝え得るのは「全能なる神の真の観念」ではなく、「地上的な文字を通じて得られる地上的な観念」にすぎない（NS:340）。だとすればそこには歴史的制約と誤謬が不可避に伴うだろうし、個別具体的な歴史的事実の中に正統な信仰を支えうる特権的な「原始的委託」を見出そうとするキーブル的な試みは挫折せざるを得ない。
歴史的世界における教理の「発展」を認めた上で、にも関わらず信仰を確保することは可能か。『教理発展論』発表までの数年間、ニューマンはこうした問題に取り組み、いわばその結果としてローマ・カトリックに改宗することになるのだが、その中で辿り着いた二つの原理について次のように述べている。すなわち、第一は「いかなる実在の観念についても、その全ての含意を一度に把握することは不可能であるということ」、第二は「生という問題において証明の中心的な導きとなるのは「先行的蓋然性 antecedent probability」であるということ」（NS:xi）。ここで注目すべきは彼がこの二つの原理を『類比』を読み変えることによって導き出している点であろう。すなわち、まず第一に彼は、バトラーが「発展」を自然科学の分野における単なる経験的知識の進歩との類比で「古代の文書の中の新しい真理の発見」と捉えていたのに対し、この「発展」を「古代の文書に対するより深い洞察」と読み変え、このことによって、単なる学問的知識の増加とは質的に異なる宗教的な洞察の深化という意味合いをこの概念に与えている（８）。つまりニューマンによれば「実在の観念」の「含意」を「発展」的に把握することは、経験的な知識を積み上げていく自然科学的な営為とは根本的に異なる、極めて宗教的な営みということになる。そして彼は第二に「生という問題」を、単に理性的に処理しうる事実的な問題ではなく、すぐれて信仰に関わる価値的な問題と捉え、そこに彼の所謂「先行的蓋然性」に基づく認識論を導入する。彼自身の規定によれば「先行的蓋然性」とは事実認識に先行して発生し、認識された事実に意味を付与する或る種の価値理念としての蓋然性である。
《一般に啓示の証拠と呼ばれている諸事実から導き出される議論に対して意味を与えるもの、それが先行的蓋然性である。単なる蓋然性は何も証明しないし、他方、単なる事実は誰をも説得しない。蓋然性と事実との関係は、魂と肉体の関係に等しい。単なる想定〔蓋然性〕だけでは何の力もない。しかし単なる事実だけでは何のあたたかみもない。心が生きているところでなら、ばらばらで不十分な証拠でも説得には十分だろう。しかしながら、どんなに完璧であろうとも、生命を欠いた証拠では、生命を欠いた信仰しか産み出すことができない》（NS:200）。ニューマンによれば、歴史的事実は、それ自体では啓示を証明しない。啓示とは、証明されるものではなく信仰されるべきものである。啓示に対する信仰を受け入れるならば、啓示と共に、正しい発展形態を確定すべき無謬の権威が存在するはずだという「蓋然性」が生じてくる。すなわち「キリスト教における教理と儀式の正しい発展を決定し、それによって正しい発展を、膨大な量の単なる人間の思弁や行き過ぎや腐敗およびこれらの原因となる誤謬から明確に区別するところの外的権威がキリスト教の中に設置されているという蓋然性」が、更には「教会は無謬であるという蓋然性」が導き出されるのである（NE:168）。そして、こうした蓋然性の集積はある種の「道徳的確実性」、つまり「一つ一つとれば単なる蓋然性にすぎない、与えられた幾つかの理由の集積した力から生まれる、神の意図と命令による結果としての確実性」に変容する（NA:180）（９）。ニューマンのローマ・カトリックへの改宗、すなわち「発展」という個別具体的な歴史の過程の外にある絶対的な「教会の不可謬の教理」と「教会に対する信仰と服従の教理」への飛翔を可能にしたのは、こうした《啓示に対する信仰→先行的蓋然性→神の意図と命令による結果としての確実性》という論理にほかならなかった。自伝において彼は次のように述べている。
《私は蓋然性に基づいて神の存在を信じ、蓋然性に基づいてキリストを信じ、蓋然性に基づいてカトリシズムを信じている。この三つの蓋然性の基礎は、その主題においてはもちろん異なったものではあるが、証拠の性質としては三者とも蓋然性であるという点で…同一であると信じていた。我々をお創りになった神は、数学においては厳密な証明によって確実性に到達すべきであるが、宗教的探求においては蓋然性の集積によって確実性に到達することをお望みになっており、従って、神は、我々がそのように行動することをお望みになり、そうお望みになるが故に我々の行動において協力を行い、それによって神がお望みになることを行う能力を我々に与え、我々の意志が神の意志と協力しさえすれば、我々の持つ論理的な力よりも高度の確実性に我々をお導きになるのである》（NA:180）。かくして自然的世界に関する経験的知識の進歩との類比でバトラーが定式化した「発展」の原理は、ニューマンにおいて歴史的世界における価値理念の相対化という歴史主義的な問題と結びつき、その過程で、自然科学的認識とは質を異にする、信仰のあり方という人間の価値認識そのものに関わる問題として深められることになったと言えよう。そしてそれはニューマンにおいては超歴史的な「不可謬」の「外的権威」に訴えるという「完全主義」（10）を導くことになった。ならばそのニューマンの濃厚な影響の下に『類比』を読んだアーノルドの場合はどうであったか。このことを我々は次節において検討することにしよう。
《私が宗教・政治・社会に関する主題について書いた全てのものの源泉は、彼ら〔「英国の中産階級、しかもその最も典型的なタイプであるプロテスタント・ディセンター〔ノンコンフォーミスト〕」〕が思想と教養の主流から分離することによって国民が被る害悪について感じたこと、つまり彼らの間を［勅任視学官として］何年間も移動して回ったことで私の中で発達してきた感情なのです》（AL03:328）。「英国の中産階級、しかもその最も典型的なタイプであるプロテスタント・ディセンター」が「思想と教養の主流から分離することによって国民が被る害悪」についての批判的考察。アーノルドの著作にバトラーの『類比』、そしてニューマンの『教理発展論』への言及が目立ち始めるのは、まさに彼がこうしたピューリタニズム批判を展開し始めた時期であった。彼がニューマンの『教理発展論』をどのような問題関心において読んだかは〔当時のニューマン宛〕書簡の中の次の一節からも明らかであろう。
《…近代の自由主義および非国教徒との、彼らの自惚れと欠点との闘いの全てにおいて、私はあなたの作品〔『教理発展論』〕の正しさを認めることになりました。そして私は実際に次のように言うことができます。----私の見解が、その表現かあるいは内容において、人々にあなたのことを思い出させるということを言われることは、私にとっては最も喜ばしい最大の賛美である、と》（AUL:56-57）。ニューマンやバトラーの影響の下に展開された、この時期のアーノルドのピューリタニズム批判の特質を最も典型的に示しているのは『聖パウロとプロテスタンティズム』（一八七〇）収録の論文『ピューリタニズムと国教会』であるが、彼は当時の書簡で同論文の眼目が、「信仰による義認といったピューリタニズムと共通する教理をいくつか保持しているにも関わらず、こうした教理のみに拘泥することなく、むしろカトリック的古代性、歴史的キリスト教、および発展等に支えられることによって、国教会が多くのものを得てきた、その様子」を示すことにあったと述べている（AL03:379）。「カトリック的古代性」、「歴史的キリスト教」および「発展」といった概念はいずれも前節において検討したニューマンやトラクタリアンたちとアーノルドが多くの問題意識を共有していたことを示しているが、この時期のアーノルドのピューリタニズム批判を検討する上で最も重要なのは最後の「発展」であろう。聖書がこの「発展」の原理で書かれているという主張を、アーノルドは以後の著作で一貫して展開することになるが、彼にとってこの「発展」の原理を強調することは、そのピューリタニズム批判において決定的な重要性を持っていた。『ピューリタニズムと国教会』には次のようにある。
《キリスト教の発生以来ずっとキリスト教に含まれている膨大で複雑な諸観念の蓄積を発展させる職務を負わされている国民的ないし歴史的な教会の神学の中に、予定説主義や唯心論、カルヴァン主義やルター主義が、現れることがある。しかし発展の段階が進行し、予定説や唯心論の教義の不健全さが明らかになると、こうした教義はこの教会の神学から脱落するだろう。そしてこの教会とその職務は従来通りのまま変わらないだろう。だが、こうした〔予定説や唯心論などの〕教義の虜になっている人々〔＝ピューリタン〕が、自分の国の歴史的教会が予定説や唯心論を十分尊重していないと考え、こうした教義に絶対的に服従する独自の結社を作ったとして、さて、こうした教義が衰退した場合、その結社も衰退し、結局、存在理由のないまま存在を維持するか、新たに別の存在理由を見つけだすか、どちらかを選択せねばならないだろう。さて、今現在存在しているもので、こんな末路を望むものはいない。だから、神による選択や信仰による義認といった教理への献身を存在理由としている結社は全て、当然の成り行きとして、人並み以上に長くかつ一生懸命、こうした教理にしがみつくのだ。だからこそ我々は我が国におけるピューリタンの結社を、こうした教理の堅固な砦として扱ってきたのである》（AW06:73）。すなわち、ピューリタニズムと国教会の根本的な相違は、教義の内容ではなく、この「発展」の原理との関係、言い換えればそれぞれの信仰のあり方にこそ存する。----アーノルドはこの論文で示したいことは次のようなことだと述べている。価値理念の歴史的な変遷、すなわち教理の「発展」を念頭におくならば、専ら「予定説、原罪、信仰による義認」等の「教理のために存在している」ピューリタンの教会は、教理そのものの歴史的な「発展」の過程で、その存在根拠を失わざるを得ない。だがその存在根拠を個々の教理に置いていない「国民的ないし歴史的な教会」は、この弊を免れている（12）。そして英国の国教会がそのような歴史的教会であることは、これまでの事実からも、そして理論上も、すなわち「先行的蓋然性 antecedent likelihood」からも明らかである、と（AW06:85）。
価値認識の歴史的「発展」と、その中に生じてくる「先行的蓋然性」。ここでアーノルドがニューマンの『教理発展論』の歴史主義的な論理に依拠して議論を展開していることは明らかであろう。単なる事実認識ではなく、人間の生の意味に関わる信仰の領域に「発展」の原理が入り込むことで不可避に生じてくる価値理念の相対化という問題を、アーノルドもまた間違いなく見据えていた。「発展」の原理によって相対化された歴史的世界において、歴史的制約と誤謬とを不可避に伴う「地上的な観念」を不完全に伝達するにすぎない特定の教義を自らの信仰の基盤にすることは、宗教にとって自殺行為以外の何ものでもない。そして「教理のために存在している」ピューリタンの教会は、まさにこの過ちを犯しているのである。
だが、それならば我々はいかにして「発展」によって生じる価値認識の相対性という問題を乗り越えることができるというのか。----この問題に関して、アーノルドもニューマンと同じく「先行的蓋然性」に基づいた議論によって応えようと試みている。だがニューマンのそれに比較すると、アーノルドの議論はその方向性を微妙に異にしており、又、根拠となる「蓋然性」とそこから導かれる信仰の基盤は全く別のものに求められている。すなわち、彼が提示する正しい発展の識別と信仰を可能にする基盤とは、他ならぬ「キリスト教の発生以来ずっとキリスト教に含まれている膨大で複雑な諸観念の蓄積を発展させる職務を負わされている国民的ないし歴史的な教会 」であり、しかもその根拠としての主な「蓋然性」は、国教会が、三九箇条の大雑把な表記ではカルヴァン主義を厳守できないと抗議してランベス条項を押しつけてきたピューリタンの「自分たちの宗教の全ての根底に予定説を置く」という愚行に必死で抵抗することによって「思想の成長」「人間性の成長と前進」に貢献してきたこと、東西分裂以前からの「カトリック的古代性」を継承している点で「過去を十分に」有している「イングランドの古き、歴史的な、カトリック的教会」であること等、過去の歴史的事実に求められており（AW06:78,92,99f）、その議論にはニューマンほどの論理的な明快さは見られず、むしろそこには、事実を積み上げることで議論に説得力を持たせようというアーノルドの苦闘が伺われさえする。
この両者の議論上の相違について敢えて整理を試みるならば次のようになるだろう。個々の教理が「発展」の過程において歴史的制約と誤謬を免れ得ないという点に関して、アーノルドはニューマンの洞察を認め、またそこから、生成する歴史的世界において人間の生の意味に関わる価値理念の基盤はいかにして確保されうるか、という極めて重大な問題に辿り着くことになった。そしてこの問題意識は彼のピューリタニズム論に、単なる人間観の問題に還元できない、いわば思想の条件の考察とでも呼びうる側面をもたらすことになった。だが、歴史的世界において有限存在たる人間の手によって紡ぎ出される一切の価値理念を完全に相対化し、その彼岸にある超歴史的な「不可謬」の権威へと飛翔することを説くニューマンの「完全主義」を、結局のところアーノルドは認めることができなかった。敢えて言うならば、アーノルドにとって信仰は、あくまでもこの個々の人間が生を営む個別具体的な歴史的世界の中に、その基盤を持つものでなければならなかったのである。
だが、歴史的世界における価値認識の相対性を認めた上で、にも関わらず、「歴史的教会」が信仰を支えうる「蓋然性」とは、いかなることを意味しているのか。何故、それが「歴史的教会」としての国教会でなければならないのか。----こうした点に関して、アーノルドは必ずしも明解な説明を与えてはいない。ただ、こうした歴史的世界における価値認識の相対性を認めた上で、教会が果たしうる役割とは何か、という点に関しては彼の神学をめぐる思索の総括となる論文『心理学的並行』（一八七六）において若干の議論が展開されている。ここでは、それを検討することで、アーノルドがニューマンの「蓋然性」論をいかに批判的に継承したかを瞥見しておくことにしよう。
『聖パウロとプロテスタンティズム』におけるピューリタニズム批判の要点は、ピューリタニズムが信仰の基盤を特定の教理に置いているために、その教理が歴史の進展の中で意味を失った場合、信仰そのものが崩壊するということであった。特定の教理に信仰を基礎づけるという立場をとる限り、その教理の妥当性が歴史的「発展」の中で失われたならば、信仰そのものを放棄するほかない。例えば「奇跡」を信じることができないのならば、「奇跡」を認めるキリスト教に対する信仰を完全に放棄しなければならない。----このような厳格な二者択一的発想を、アーノルドは『心理学的並行』において「絶望の論議 arguments of despair」と呼んでいる（AW08:111）。こうした、信仰は厳密で客観的な原理や真理認識を基礎としていなければならず、その基礎たる原理や真理認識が崩れるならば、信仰もまた崩壊せざるを得ないという「絶望の論議」に対し、ピューリタニズムは何一つ反論することができない。ならば、アーノルドのいう「国民的ないし歴史的な教会」としての国教会はどうなのか。
同論文においてアーノルドは「人が子どもの頃から育った国の教会」すなわち「歴史的教会」の重要な役割として次のようなことを挙げている。
《教会の仕事の中で重要な位置を占めているのは、キリスト教信仰の次の二つの本質的な点を直接的に認識することである。すなわち、正しさによる救済とイエス・キリストによる正しさである。また、同じく重要な位置を占めているのは、それらの近似的な認識とでも呼べるようなこと、すなわち、人間精神が、その漸進的な成長の中で、奇跡や形而上学を織り混ぜながら、それらを発展させ、固定し、強固なものとし、人間精神にとって更に明確なものにし、より身近なものにしようとする努力である。これこそは詩にほかならない》（AW08:130-33）。パウロが奇跡を信じていたという事実は、アーノルドによれば、パウロですら歴史的な制約の下にあったことを示している。実際、パウロの信じていた「肉体の甦り」としての「復活」など、もはや誰も信じてはいない。だが、そのことはパウロを貶める根拠には断じてならない。パウロはそうした制約の下にありながらも、「精神の甦り」としての「復活」という人類にとって重要な経験を語ることができた（AW08:128f）。キリスト教が歴史的な制約の下にあるという事実は、信仰を放棄する根拠とはならない。各時代の「奇跡や形而上学を織り混ぜ」ながら、「近似的な認識」として信仰を共有する努力を続けることは、断じて無意味な営みではない。----「発展」の原理を持ち込むことで発生する歴史主義的相対主義という問題に対するアーノルドの答えは、このようなものであった。
「発展」を認めたからといって、我々は、歴史主義的なニヒリズムの前に屈服する必要はないし、歴史的世界の外に想定された不可謬の実在に帰依する必要もない。歴史的世界における価値理念の相対性を前提としつつも、自らの属する時代に即した「奇跡や形而上学を織り混ぜ」ながら、一つの共同体として信仰を共有していく「詩」的な営みを続けていく余地は、我々有限存在たる人間にも残されているはずだし、そうした営為の担い手、すなわち「善の推進のための国民的結社」（AW08:133）が「歴史的教会」として存在することは十分に蓋然的なことである。----アーノルドの神学論文の論理構造が示すところの「先行的蓋然性」とはまさしくそのような蓋然性であったと言えよう。
グラッドストンは晩年の論文『生きる道標としての蓋然性』（一八七九）においてバトラーの蓋然性論の精神史的意義について詳細に論じている。----通常、プロバビリティという言葉は、数学において、確実性と不可能性を両極とする、ある命題の確からしさ、すなわち確率のことを意味する。だがバトラーによれば、このプロバビリティの領域には本来、こうした数学的な真理だけでなく、過去や未来の事実、そして道徳的行為までもが含まれる。すなわち、真理とは「～である」という表現によって、過去や未来の事実は「～であった」「～だろう」という表現によって、道徳的行為は「～べきだ」という表現によって、全て、真あるいは偽の命題の形式に帰着させることが可能であり、従ってこうした事象について有限存在たる人間が判断を下す際には不可避に蓋然性が伴わざるを得ない（BW03:338ff）。無論、蓋然主義を宗教や道徳に持ち込むことが道徳的放縦を導く危険性はあった。実際、そうした蓋然主義の危険性に関してはパスカル（Blaise Pascal, 1623-62）の『プロヴァンシャル』（一六五六～五七）が見事に描き出しているし、パスカルがプロバビリティという言葉を数学的な「確率」に限定するに至った背景には、まさにこうした蓋然主義的放縦に対する彼の強烈な危機意識があった（14）。だが、これに対しグラッドストンは、パスカルが批判した蓋然主義の道徳的放縦が、バトラーの蓋然主義の精神とは全く矛盾するものであったことを強調している。グラッドストンによれば、バトラーの「蓋然性」論の眼目はあくまでも「宗教の証明において絶対的な確実性を要求する輩に、こうした要求が理に適ったものではないということを示す」という護教論的なものであった（BW03:343）。すなわち、我々の歴史的世界における生を導くものが蓋然的なものだということを認めることは、一切の信仰を根拠のない無意味なものとして放棄することにはならず、むしろ人間が自己の認識能力の有限性を謙虚に認め、その有限性を踏まえた生き方を探究すべきだという態度へと我々を導くはずである。ホッケ同様、グラッドストンもまた次のように感じていたに違いない。
《パスカルは----彼の『プロヴァンシャル』に関する限り----やりすぎて標的を射越した。…〔決議論的蓋然主義者であった〕ジェスイットたちは決して秩序を解体しようとしたのではなく、また、神学的宇宙の荘重な中心を破壊しようとしたのでもなかったのである》（15）。既に見たように、グラッドストンはアーノルドをバトラーに対して極めて批判的な「検閲者」の一人と見做していた。だが、このようにニューマンの影響下でアーノルドが辿り着いた或る種の蓋然主義と、グラッドストンがバトラーに見出した蓋然主義を比較するとき、我々は彼らの立場が決して対立するものではなく、むしろヴィクトリア期に信仰の危機という事態に直面した知識人として、彼らが多くのものを共有していたことに気づかされるのではなかろうか。
Ｄ・ニコルスは近代英国における神学と政治観との関連についての研究『「理性の時代」における神と統治』において、「蓋然性」をめぐるバトラーの議論の中に、ハーバーマス的な対話的理性の萌芽を見出している。
《…『宗教の類比』におけるバトラーの議論は、19世紀中庸よりも、むしろ20世紀後半において、より大きな関連性を持つのかもしれない。彼が用いたのは論証よりも説得であり、証明よりも熟慮であった。個別的な議論においては現代に通用しない点もあるが、「世界内的な希望に根拠を与える」という彼の試み（現代アメリカ哲学の無粋な表現で言うなら、彼の「規範的に妥当な主張の、討議による認証」）は、ミルやスティーヴンの方法よりも、現世的思考における近年の或る種の動向と多くの共通点を持っている》（16）。「熟慮」を通じて行われる「規範的に妥当な主張の、討議による認証」。----こうした極めて現代的な議論をバトラーの蓋然性論に読み込もうというニコルスの目論見がどこまで有効性を持ちうるかについては、バトラーのテクストに即して慎重に検討する必要があるだろう。だが、ニューマンの影響下でアーノルドが展開した「歴史的教会」論、そしてグラッドストンが晩年に展開したバトラー論の中に共通して見られる或る種の蓋然主義には、価値認識の妥当性を支えているのは間主観的なコミュニケーションであるという洞察が間違いなく示されている。バトラーの蓋然性論をこのようなかたちで復権することは、グラッドストン自身が自覚していたように、パスカル的な「確率」論の優位によって見過ごされてきた蓋然主義のポテンシャルを、宗教や道徳という、まさに歴史的世界における人間の生の意味を問う次元において再評価することを意味していた。無論、そうした蓋然主義復権の企てがどこまで成功したかは更に詳細な検討を必要とするだろう。だが、いずれにしても、ニューマン、アーノルド、そしてグラッドストンらが格闘した問題が、まさに価値相対主義の文化が蔓延する現代世界を生きる我々にとって極めて重大な意味を持つということ、このことだけは間違いないと言えよう。
以下の文献からの引用に際しては、本文中に略号、巻数、頁数を示す。
尚、以下の邦訳を参照したが、スペースの都合上、邦訳の頁数は省略した。ただし、訳文は必ずしも邦訳には従っていない。