（※明らかな誤記を正したほか、タグで長い引用を独立させる等、表現も一部変えた。尚、レフリーからのコメントに従い「積極的」自由の概念を使う際に註を付したが、本文そのものは最初に投稿したものとほとんど同一である。執筆の際に「枚数制限」を意識し過ぎたためか、正直言ってあまり読みやすい論文にはなっていない。だが「英米の哲学というのはもっと明快なものではないのか」という些か理解困難なコメントを某氏から頂いたことを考えると、文体そのものが英米系の哲学を論じるには不適切なのかもしれない。）
本稿はヴィクトリア期英国を代表する思想家の一人であるＭ・アーノルド（Matthew Arnold, 1822-88）の政治思想家としての代表作『教養と無秩序』（Culture and Anarchy, 1867-69）について、一つの読みを提示する試みである（１）。 彼は著名な歴史学者トマス・アーノルド博士の長男としてレイラムに生まれ、オックスフォード大学ベリオル・カレッジに学んだ後、ラグビー校の講師、オリエル・カレッジのフェロー、ウィッグ党政治家第三代ランズダウン卿の私設秘書を勤めていたが、結婚のために安定した収入が必要となり、ランズダウン卿の紹介で1851年に勅任視学官の職を得、以後、死の二年前の86年まで英国教育行政の第一線に関わっていた。また彼は既に1849年、52年には匿名で詩集を出版していたが、53年に本名で発表した『新編詩集』によって詩人としての評価を確立し、更にはその序文における古典主義解釈が評価され、57年にオックスフォード大学詩学教授に就任。以後、視学官の傍ら、10年にわたって詩学講義を行なっている。60年代に入ると彼は文学から政治まで幅広い批評活動を行い始めるが、その多くはこの詩学講義を基にしたものである。本稿が対象とする『教養と無秩序』もその原型は67年７月に「教養とその敵」と題して『コーンヒル・マガジン』に発表された彼の最終講義であった（２）。
英国において当時強い発言力を有していたプロテスタント・ディセンター（ノンコンフォーミスト）、功利主義者、そしてコント主義者等の人間観を批判し、宗教的な「善行を志向する道徳的社会的熱意」（ヘブライズム）と知的な「純粋な知識への科学的熱意」（ヘレニズム）の両方を原動力とする「調和的」かつ「一般的」〔＝平等〕な「完成」を追求する「教養」の立場を提唱したこの最終講義は、発表後多くの反論を招き、半ば意図せざる結果として、彼はこれらの反論に対する返答を「無秩序と権威」と題して68年に『コーンヒル・マガジン』に五回にわたって----当初は一回で完結する予定であった----連載する羽目になった（３）。『教養と無秩序』はこうした一連の論考に長い「序文」を付して69年に発表されたものであり、必ずしも一冊の首尾一貫した著作として容易に読み得る作品ではない。従って以下我々は『教養と無秩序』の議論を、その各章の執筆順に着目しつつ、最後に執筆された「序文」からではなく、「教養とその敵」として最初に執筆された「はじめに」と第１章に始まり、「無秩序と権威」として執筆された第２～６章と「結論」を経て、最後に「序文」によって総括された一連の思索の過程として捉え、その思想の核心を内在的に再構成することを試みよう。
最終講義「教養とその敵」として執筆された「はじめに」と第一章において彼は先ず、教養を単なる非実際的な「ギリシア・ラテン語等の死語についての生齧りの知識」と見做すＪ・ブライトやＦ・ハリスンの教養観を念頭に置きつつ（Ⅴ：87f）、それまでの著作においては些か不明瞭に用いていた自らの「教養」概念（cf.Ⅱ：5, et passim）をより精緻化し、その規範理念としての実際的有効性を明確に提示しようと試みる。そこにおいて彼は教養を、一般に考えられている様な単なる「好奇心」によるものとしてではなく、あくまでも万人の平等な「完成」を志向するという意味で「一般的 general」な、そして知的な「科学的熱意」と宗教的な「道徳的社会的熱意」の両方を原動力としつつ「人間本性の美と価値を構成する全ての能力の調和的発展」を志向するという意味で「調和的 harmonious」な、現世における人間完成の追求と捉える（Ⅴ：90ff）。「一般的」かつ「調和的」な現世における人間完成の追求としての教養。ここに我々は彼の50年代後半以降の思索の集約的な表現を見て取ることができよう。すなわち同時代の様々なデモクラシー論を念頭に置きつつ「一般的」な人間完成を説いた61年発表の「デモクラシー論」の議論、そしてハイネやスピノザ等を援用しつつ現世における「調和的」な人間完成を「人間の真の自由」として把握した57年の詩学教授就任講義「文学における近代的要素について」以降の「人間精神発達の一般史」（Ⅰ：18）をめぐる一連の考察である。
先ず「デモクラシー論」において彼はトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』等を念頭に置きつつ、デモクラシー、すなわち「多数者」による「社会的自由」〔＝平等〕の要求という趨勢を「自然で抗することのできない原因」による歴史的必然と見做しているが、注目すべきは彼がこうした趨勢の基底に或る種の完成衝動、すなわち現世において「自己の本性を断固肯定」しようとするスピノザ的な欲望（４）の発現を認めている点であろう。
多数者の要求と態度がますます大きくなっていること、つまりデモクラシー精神の浸透を大声で嘆く人々がいる。だが彼らはこうした人間本性の素朴で根深い衝動の発現に対して不満を言うことによって、実は人間本性そのものに不平をぶつけているのである。哲学者〔＝スピノザ〕たちが言うように、生の本質とは「自己の本質を断固肯定する to affirm one's own essence」努力、すなわち自分自身の存在を十分かつ自由に発展させようとする努力、豊かな光明と態度を持とうとする努力、束縛を受けたり押し潰されたりしないようにする努力にこそ存する。そしてデモクラシーは「自今之本質を断固肯定」しようと努力している」つまり、これまでアリストクラシーが努力して成功を収めてきたのと同じように、この現世を生き、享受し、我がものにしようと努力している（Ⅱ：07）。デモクラシー化の進行の基底にあってこれを歴史的必然たらしめているところの万人に平等に認められる現世的完成衝動。一見価値中立的な態度を装いつつもアーノルドがこの完成衝動の発現を積極的に評価していることは議論の進行からも明らかである。
誰も次のことは否定できまい。平等への或る程度の接近、つまり明確な不平等の或る程度の削減が、社会全体----既に問題は特定の個人や階級だけでなく一般大衆にも及んでいる----を動かしているところの可能な限り十分かつ自由に発達しようという衝動の、自然な本能的要請だということを。平等な社会での生活が人間の精神を拡大させ、人間の能力の働きを円滑化・活性化する傾向を一般的に持つのに対し、他方、身分差のある社会での生活は、なるほど場合によっては非常に正しい規律を生むこともあるのだが、一般的には精神を隷属的にし、能力の自由な活動を困難かつ消極的にする傾向を持つということを。そしてひどく低い身分に置かれ、自分の存在の無意味さを痛感させられることは、概して道徳的品性を抑圧・麻痺させるような影響を及ぼすということを。…デモクラシーを好まず、むしろ脅威すら感じていた或る哲学的な観察者〔＝トクヴィル〕は、だからこそ次のように書かずにはいられなかったのである。----「他のどんな国よりもアリストクラシー的な国々において一般庶民は最も非文明化している」と（Ⅱ：08-09）。
キリスト教の創始者は言っているではないか、「あなたがたも完全なものとなりなさい」と（Ⅱ：29）。
そして彼は英国における運動としてのデモクラシーの担い手を当時台頭しつつあったプロテスタント・ディセンターを中核とする中産階級に求めるが、注目すべきはその際に彼が中産階級のピューリタン的エートス----コリーニの所謂＜道徳的品性の言語＞（５）----に着目している点である。そこにおいて彼は当時の中産階級の間に根強く広まっていたピューリタン的エートスに対し、それが一方で極めて強い独立心と厳格な「道徳的品性 character」を育みつつも、他方で国家活動に対する必要以上に激しい嫌悪と新しい思想に対する閉鎖性を生じたとして極めて両義的な評価を示しつつ（Ⅱ：19ff）、その両義性に対応して（１）ピューリタン的な「道徳的品性」をデモクラシー化推進の梃子として肯定的に評価する議論と、（２）「道徳的品性」の肥大化がいかに「粗野で盲目的で危険」かを危惧する議論という二方向の議論を展開している（Ⅱ：23f）。（１）一方で厳格な道徳的自律の涵養を促進しつつも、（２）他方では独善的主観性へと堕落する危険性を孕む「道徳的品性」。但し「デモクラシー論」全体において力点はあくまでも論点（１）に置かれており、知的「教養」の観点を導入しさえすれば「道徳的品性」を理想的な完成----アーノルドはそれを端的に古典期ギリシアにおいて例外的に実現されていた知的「教養」と「道徳的品性」の「協力」と捉えている----へと容易に導き得るという楽観的展望が論点（２）を圧倒している（Ⅱ：24ff）。少なくとも60年代前半において彼がこのような楽観的展望を中産階級に対して抱いていたことは次の64年のコブデン宛書簡からも明らかであろう。
今まさに中産階級の精神において、他では見られない政治的動揺が生じていますが、私にはこれが我が国における最も強大な力であり、一つの梃子であるように思われます。従って彼らの精神を開かれたものにし、それをよりよい教養 a better culture によって強化するために、できるかぎりのことがなされねばならないと思います（６）。
万人の平等な完成衝動の発現であるデモクラシー化が進行する中、既にそのピューリタン的エートスにおいて優れた「道徳的品性」を有している中産階級は、比較的容易に「調和的」な人間完成へと導き得るであろう。----こうした彼の楽観的展望に理論的基礎を提供していたのは明らかに57年の詩学教授就任講義「文学における近代的要素について」以降の一連の普遍史的考察であった。彼はそこにおいて、異教精神とキリスト教精神の相違を此岸志向的な＜ギリシア気質＞（＝＜感覚主義＞）と彼岸志向的＜ナザレ気質＞（＝＜精神主義＞）と捉えるハイネの議論（７）を踏まえつつ、「知的解放」を志向する「感覚と悟性」優位の「感覚主義」と「道徳的解放」を志向する「心と想像力」優位の「精神主義」という対概念による「我々人類の精神史」（Ⅰ：37）を展開している。----これまでの「我々人類の精神史」は異教精神に代表される此岸志向的な「感覚主義」とキリスト教精神に代表される彼岸志向的な「精神主義」を二大原理として進行してきた。そしてその過程においては「感覚と悟性」（知性）を重視する前者が学問と芸術を促進してきたのに対し、「心と想像力」（道徳）を重視する後者は専ら宗教と道徳を促進してきた。但し、どちらも単独で発達する限り不可避にそれぞれの極限形態へと堕してしまう。過度の「感覚主義」はポンペイの道徳的退廃を、過度の「精神主義」は聖フランシスの懐疑を導かずにはおかなかった。従って19世紀という「近代」の思想的課題は、まさにこうした質料優位の「感覚と悟性→知的解放（感覚主義）」と形相優位の「心と想像力→道徳的解放（精神主義）」を綜合することにこそ存する。
後期異教精神の詩に生命を与えていたのは感覚と悟性であり、中世キリスト教の詩に生命を与えていたのは心と想像力である。だが、近代精神の生の主要素は股間書くと悟性でもなければ心と想像力でもなく、想像的理性 the imaginative reason にほかならない（Ⅲ：230）。異教的「感覚と悟性」とキリスト教的「心と想像力」の綜合としての「想像的理性」、「知的解放」と「道徳的解放」の綜合としての「人間の真の自由」（Ⅰ：19）、更には「ポスト・ヘーゲル哲学」〔＝ヘーゲル左派の思想〕の無神論的側面とアウグスティヌス主義の現世否定的側面を共に克服し得るスピノザの「積極的ストア主義」（Ⅲ：176f）、この時期の彼の著作に頻繁に見られる古典的ギリシアの精神（cf.Ⅰ：22, Ⅲ：230）を範として概念化された様々な綜合の理念は、19世紀という「近代」において「我々人類の精神史」が「一般的」かつ「調和的」完成に向かいつつある、あるいは向かわなければならないという歴史的認識（８）を彼が持っていたことを示している。デモクラシーという趨勢の中で中産階級の「道徳的品性」を梃子とした「調和的」完成（知的「教養」と「道徳的品性」の「協力」）が可能だという60年代前半の彼の展望がこうした歴史認識によって理論的基盤を与えられていたことは明らかであろう。
最終講義「教養とその敵」においてアーノルドが試みているのは、こうして「一般的」かつ「調和的」な現世的完成の追求として捉えられた教養を規範理念としつつ、「近代世界」とりわけ当時の英国に置いて顕著に見られる「文明」の「機械的性格」とその根底にある思想的貧困に的確な診断を下すことであった。当時の英国社会に蔓延していた「機械的手段に対する信仰」、つまり＜消極的＞自由（９）や財産といった本来単なる「機械的手段」にすぎないものを究極の目的と混同し、その追求に無批判に没頭する或る種の傾向の根底に、アーノルドは二種類の思想的貧困を暴き出す。すなわち人間の目的である完成に「特殊で限られた」性格しか与えることのできない「宗教」と「功利主義」----具体的には彼岸志向的なピューリタニズムと此岸志向的なベンサム主義・コント主義が念頭に置かれている----の偏狭な人間観である（Ⅴ：95ff）。一方で現世否定的な「道徳的解放」のみを偏重する前者は、人間本性の現世的側面に対する無知故に、本来は人間完成のための単なる機械的手段にすぎない＜消極的＞自由を人間の現世における唯一究極の目的と思いこみ、そのような自由だけを求める行動に無批判に没頭する。他方、「知的解放」のみを快楽主義的に偏重する後者は、人間本性の精神的・道徳的側面に対する無知故に、極めて不完全な「体系」に満足し、これを安易に振りかざす。＜消極的＞自由を絶対視するＪ・ブライトやノンコンフォーミストたちの「中産階級的自由主義」および主知主義的な「体系」を奉じるＪ・Ｓ・ミルやコント主義者たちの「ジャコバン主義」は、それぞれ両者の政治的表現にほかならない（Ⅴ：107ff）。
但し、ここで注目すべきは、この最終講義の全体を読む限り、明らかに議論の重点が前者、つまり「宗教」的人間観の検討に置かれており、更には教養と「宗教」の共通点が強調されている点であろう。教養と「功利主義」の比較についての記述がほとんど皆無であるのに対し、教養と「宗教」の比較は詳細に展開されている。----教養は理想的な完成を「人間本性の美と価値を構成する全ての能力の調和的発展」と見做す点では「道徳的解放」を偏重する「一般に我々が考えているような宗教」と一線を画しているが、その完成を「内的完成----我々の中にある、獣性とは区別されるところの人間性そのものの発達と優位」と見做す点においては「宗教」と同一である云々（Ⅴ：93f）。そして「功利主義」に対する評価が皆無であるのに対し、ピューリタニズムの厳格な道徳性----比類なき「道徳の発達と自己克服」（Ⅴ：101）----を高く評価する記述は至る所に散見される。異教精神とキリスト教精神を二大原理としつつ、これら両者の綜合へ向かう弁証法的な「我々人類の精神史」において、既に「道徳的解放」を達成している英国の中産階級は確実に「調和的」完成に近づきつつある。----最終講義で彼が提示しているピューリタン特有の「道徳的品性」に「完成への端緒」（Ⅴ：101）を見出すこうした視点は、彼が此の段階において「デモクラシー論」の楽観的展望を依然として保持していたことを示している。そしてこの最終講義があくまでも既にそのような「道徳的品性」を有している中産階級を「調和的」完成に導くための「甘美と光明」の教説に終始し、結果的に「教養など非実際的なたわごとに過ぎない」（cf.Ⅴ：115）という批判を招いたのは、恐らくは彼のこうした楽観が原因であった。
そして我々はここに『教養と無秩序』全体に関わる微妙な問題が生じていることに注目しておこう。ここにおいて「道徳的品性」に「完成の端緒」を認める楽観的展望は、「道徳的品性」の政治的表現である「中産階級的自由主義」に主観的独善を見出す視点との間に微妙な緊張関係を生じ始めている。すなわち、デモクラシーという歴史的趨勢の中で中産階級の「道徳的品性」は有効は規範性を持ち得るのか、それとも単なる独善的主観性へと堕して無秩序を引き起こすのか。----我々は以下、「無秩序と権威」において美的教養の教説が政治思想として更に積極的に理論化される過程を辿るが、そこにおいて我々は、こうした「道徳的品性」の両義性が、更に顕在化・問題化するのを見るであろう。
「無秩序と権威」前半部として執筆された第２・３章においてアーノルドは、最終講義で提示した教養の教説の「可能な限りの実際性」を示すべく、先ず一方で「文明」一般の「機械的手段の彼方にある本来の目的に目を向けず、機械的手段を目的と混同して、これを高く評価する傾向」のうちで英国社会において特に顕著なもの、つまり＜消極的＞自由に対する「機械的信仰」への批判を更に徹底化しつつ、他方では、教養の立場から導かれる「権威の原理」としての国家論の構想を展開している（Ⅴ：116ff）。
先ず第２章において彼は英国社会特有の偏狭な自由観に対する批判を展開する。----自由は「我々〔英国人〕がその目的を十分に考えずに、それ自体で崇拝しているもの」の一つであり「自由について我々が普段考えたり口にしていることの中には、我々の機械的手段に対する崇拝が明らかに露呈されている。我が国で流布している考えは…、単に自分の好きなようにできるということが人間にとって極めて大きな幸福であり重要なことだという考えである」（Ⅴ：117）。そして「デモクラシー論」以来の彼の分析によれば英国特有の「可能な限り自分の好きなことをするのが英国人の偉大な権利であり幸福であるという考え方」すなわち「個人的自由の主張」そのものは貴族階級にとっては名誉革命以来の伝統であったが（cf.Ⅱ：05f, Ⅴ：117）、デモクラシーという歴史的趨勢の中、労働者階級が旧体制の「服従の観念と習慣を持つ封建主義」から解放されると、彼らもまた「個人的自由の主張」を唱え始めるようになった。ここにおいて「機械的手段に対する迷信」としての「自由そのものの崇拝」は「無秩序」への傾向を示し始める。すなわち、労働者階級は「自分の好きなことをするという英国人の権利----好きな場所へ行進し、好きな場所で集会を開き、好きな場所に侵入し、好きなように喚き散らし、好きなように脅迫し、好きなように破壊する権利」を主張し始めたのである（Ⅴ：117-9）。
こうした「無秩序」に抗するためにアーノルドは教養の立場を「権威の原理」として理論化することを試みる。
単に自分の好きなことをすることが大した幸福ではないということ、単に好きなことをする自由の崇拝が所詮は機械的手段の崇拝にすぎないということ、そして真の幸福とは正しい理性の命令を好み、その権威に服従することだということを、人々が教養のもたらす光明によって悟るとすれば、我々は教養から実際的利益を得ることになる。 つまり、我々は我々を脅かしていると思われる無秩序への傾向を阻止するべく、大いに要望されている権威の原理を得るのである（Ⅴ：123）。つまり彼はここにおいて教養の実際性を、それが提示する「国家の観念----一般的利益のために厳格な権力を託され、個々人の利益ではなく広範な利益の名の下に個々人の意志を統制するところの、コレクティヴな組織として統一性を帯びた国民という、大陸と古典古代においては非常によく知られている観念」（Ⅴ：117）として理論化しようと試みるのである。
それではこうした権威、すなわち「共同体の正しい理性を集約し、状況に応じてこれを強力に発動する国家」（Ⅴ：123-4）とは、具体的にどのようなものであり、その担い手はどこに見出されるのか。アーノルドは権力の担い手を英国社会の三大階級である「野蛮人」（貴族階級）、「俗物」（中産階級）、「民衆」（労働者階級）のいずれかに見出そうとするＴ・カーライル、Ｒ・ロー、選挙法改正同盟等の見解を偏狭な階級国家観に基づくものとして退け、彼独自の二つの自我概念に基づく超階級的な国家論を展開する。----人はこれらの階級に属している限り、自分の「凡庸な自我」すなわち「たまたま自分が属しているにすぎない階級の観念と欲望」を超越することができない。そして「個人的自由の主張」に助長されるがままに個別的な階級的利害＝「凡庸な自我」に無批判に埋没している限り、人は「正しい理性」＝「最良の自我」に到達することができない。つまり「無秩序」に抗するための「権威の原理」を「国家」として制度化することができないのである。
貴族階級はその凡庸な自我、つまり〔単なる〕好悪を主張しようとし、中産階級も労働者階級も同じことをしようとする。だが日常的自我によって我々は個別的になり、個人的になり、相争う。我々がお互いに安全でいられるのは誰一人として権力を掌握していない場合だけである。無秩序の危険が迫ったとき、我々は何一つなす術を知らない（Ⅴ：134）。＜消極的＞な自由観（「個人的自由の主張」）を前提とした階級国家観は＜積極的＞な自由観（「最良の自我」への服従）を前提とした超階級的国家観によって超克されねばならない。
我々には権威が必要だが、我々が見出すものは嫉妬深い諸階級と抑制と行き詰まりだけである。すると教養が国家の観念を提唱する。だが我々は我々の凡庸な自我の内には確固たる国家権力の基礎を見出さない。すると教養はその基礎が我々の最良の自我の内にあると教えてくれるのだ（Ⅴ：134f）。「最良の自我によって我々は結合され、没我的となり、相調和する。これに権威を与えても危険は生じない。なぜならこれは我々の持ち得る最も信頼すべき友だからである」（Ⅴ：134f）。そして彼はいわば＜特殊意志＞としての各階級の「凡庸な自我」に無批判に追従する当時の英国の代議政治という現実に対し、あくまでも＜一般意志＞（ルソー）としての「最良の自我」及びその制度化としての超階級的「国家」という理想を対置する（Ⅴ：155）。だが三大階級がそのような国家権力の担い手たり得ないとすれば、その具体的な担い手は一体どこに見出されるというのか。彼は第三章において国家権力の担い手を各階級の中に居ながらも、その普遍的「人間性 humanity」（10）において個別的な階級的利害（「凡庸な自我」）を例外的に克服している「異人 aliens」に見出そうとしている（Ⅴ：145f）。普遍的な「人間性」を特徴とする「異人----階級精神ではなく専ら一般的な人間的精神、人間完成への愛に導かれている人々」による国家権力の掌握（Ⅴ：146）。ここに我々は自らの「凡庸な自我」を克服し、超階級的な「最良の自我」＝「正しい理性」に覚醒した知識人による或る種のナチュラル・アリストクラシーという構想を見て取ることができるだろう。
ところがこうした普遍的「人間性」および超階級的知識人国家という構想は、第四章以下、つまり「無秩序と権威」後半部と最後に執筆された「序文」においては全く言及されなくなる。『教養と無秩序』という非常に繰り返しの多い作品に置いて或る論点が二度と見られなくなるという事実はそれだけでも極めて意味深長であろうが、更に注目すべきは「結論」において些か唐突に現れる次の一節である。
…正しい理性を信じ、我々の最良の自我を解放・高揚する義務と可能性を信じ、人間性の完成への進歩を信じる我々にとって、この厳粛なドラマが展開される舞台である社会の体制は神聖なものである。誰がそれを支配していようとも、そして我々がどれほどその支配者の退陣を望んでいようとも、彼らが権力の座にある限り、彼らが無秩序と混乱を弾圧するのを我々は心の底から支持する。なぜなら秩序が無ければ社会はありえないし、社会がなければ人間完成はあり得ないからである（Ⅴ：223-4）。第２・３章において普遍的「人間性」の理想を唱えていたアーノルドが、ここでは「人間性の完成への進歩」と「秩序」の名の下に、当時の英国の現実の国家体制を「この厳粛なドラマが展開される舞台である社会の体制」として聖化するに至る。確かに、彼が明白なかたちで国家体制の転覆を唱えたことは一度もない。だが、そうはいっても、個別的な階級的利害へのこびに終始していた当時の英国の代議政治という現実に対して「異人」による超階級的国家という理想を唱えていた第２・３章の議論と、現実の国家体制を無条件に聖化する「結論」の反動的な議論との間には明らかに大きなギャップが生じている。
第２・３章における超階級的知識人国家というラディカルな構想から「結論」の極めて反動的な現実国家に対する賛美への彼の「転向」----シジウィックの表現を借りるならば「理想的教養」を説く普遍的ヒューマニストと保守的な「現実の擁護者」という彼の二面性----を、例えばウイリアムズやナイツは労働者階級の政治活動に対してアーノルドが抱いた恐怖に帰している（12）『教養と無秩序』に見られるこうしたギャップに関する彼らの分析は極めて有益であり、我々もそこから多くの示唆を得ている。だが、労働者階級の過激な示威行動を前にして突如反動化する「秩序派」の進歩的知識人という彼らのアーノルド像は、彼の政治思想そのものが孕んでいた重大な問題を隠蔽してしまいかねない。すなわち、敢えていうならば、彼らは労働者階級に対するアーノルドの反応を重視するあまり、彼の教養の教説が中産階級のピューリタン的エートスに関する独自の考察を背景としつつ展開されてきたということを見落とし、更には中産階級のピューリタン的な「道徳的品性」に対する彼の両義的評価という微妙な問題を捉え損なっているのである。
既に見たように「はじめに」と第１章においては「デモクラシー論」以来の「道徳的品性」に「完成の端緒」を見出す楽観が依然として保持されていた。ところが第２・３章の国家論において「完成への端緒」は、中産階級の「道徳的品性」ではなく、むしろそれとは明確に区別されるところの脱階級的「異人」の普遍的「人間性」に求められている。英国の偏狭な自由観の分析を進めていくにつれて、彼は、デモクラシーという歴史的趨勢において「道徳的品性」が必ずしも「完成への端緒」たり得るものではなく、むしろ英国の偏狭な「個人的自由の主張」を助長し、更には結果として完成の追求を阻害していることを強く意識し始めたのである。
そして第４・５・６章において道徳的なヘブライズムと知的なヘレニズムという二大原理による普遍史の枠組みを再び提示した後、アーノルドはピューリタニズムをヘブライズムの或る種の疎外形態として捉え直し、これを「道徳的解放」に大きく寄与してきた伝統的なキリスト教から区別するに至る。----聖パウロを典型とする伝統的なキリスト教はヘブライズムをその中心原理としつつも、ヘレニズム的視点を見失うことはなかった。例えばパウロは、ユダヤ人の律法の道徳的厳格さがその「機械的」な形式主義故に主観的独善に堕し、結果として商業上の不道徳に対して全く有効な拘束力を持ち得なかったことを見抜き、「現世における甦り」という完成の理念を導入することによって、こうした「機械的性格」を克服することに成功していた（Ⅴ：187ff）。ところが伝統的なキリスト教のこうした柔軟さが、ピューリタニズム特有の「唯一つの必要なもの unum necessarium」という発想によって完全に失われてしまう。アーノルドの分析によれば、「人間性についての限られた考え方である『唯一つの必要なもの』という発想----我々の一面だけを支配的なものと見做し、我々の十全かつ調和的な発達を無視すること」によって著しく主観化、形式主義化された「道徳的品性」は質料的現実に対して有効な拘束力を持ち得ないばかりか、更には「機械的」な「中産階級的自由主義」として無批判な現世肯定（階級的利害という「凡庸な自我」への埋没）を助長するに至ったのである（Ⅴ：180f）。
その余りにも著しい主観性、形式主義性（「機械的性格」）故に、現実に対する有効な拘束力を持ち得ず、更には逆説的に無批判な現世肯定を導いていた「道徳的品性」。ここにおいて「デモクラシー論」とは逆に、「道徳的品性」の肥大化を危険視する議論の方が楽観的展望を圧倒し始め、デモクラシーという歴史的趨勢の中で「道徳的品性」を梃子として「一般的」かつ「調和的」な完成を推進しようという最終講義の美的教養の教説は或る種の破綻を余儀なくされる。
もはや問題は中産階級の「道徳的品性」を梃子とした完成ではない。英国の中産階級に一方で「善良さ、良心、精力、分別」を与えつつも、他方で「正しい理性に対する不信」と「どんなに粗野な行為でも、自分独自の行為に対しては示すところの過大な評価」という主観的独善を確実に植え付けているピューリタン的な「道徳的品性」を如何に克服するか（Ⅴ：176）。----「無秩序と権威」後半部から「序文」にかけての彼の問題意識は専らここに存する。そしてそこでの議論が全体としてピューリタニズム（ノンコンフォーミズム）対国教という構図で展開されていることからも明らかなように、アーノルドはピューリタニズムの独善的主観性を克服する鍵を国教制度 religious establishments に求めている。ここで何よりも注目すべきは、彼がピューリタニズムと国教の相違を教義上の問題としてではなく、専ら教会制度のあり方の問題として捉えている点であり、更には彼が時の権力としての国家による承認と基本財産の付与 endowments に決定的な重要性を見出している点であろう。----ノンコンフォーミストがその「ばらばらで偏狭な組織 hole-and-corner organization」故に「精神的偏狭さ provincialism」に陥っているのに対し（Ⅴ：35ff）、国教とは国教制度だけが与えてくれるところの「我々の思いつきや感情を超越した人間精神の歴史的生活の観念」によってそれを免れている（Ⅴ：243）。69年の書簡によれば、ノンコンフォーミストの「道徳的品性」の独善的主観性はまさに彼らが「思想と教養の主流」から孤立していることに起因するものであった（13）。そして彼によれば、歴史において「精神主義」の主観的道徳性をこうした「思想と教養の主流」に媒介してきたものは、ほかならぬ歴史的実体としての時の権力、すなわち現実の国家体制であった。彼は313年のミラノ勅令、つまりコンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認に決定的な歴史的意義を見出す。----成立当初において「どの世界にも根を下ろさず、従って人間生活の豊かで大きな流れに触れることのない世代」にすぎなかったキリスト教精神がノンコンフォーミスト的独善に堕さなかったのは、まさにコンスタンティヌスによって「人間生活の豊かで大きな流れ」へと媒介されたからであった（Ⅴ：251）。
我々はこうした国教制度、すなわち「我々の思いつきや感情を超越した人間精神の歴史的生活の観念」を与えることによって「道徳的品性」の独善的主観性を克服する国教制度という彼の構想に、第２・３章で示唆された「異人」によるナチュラル・アリストクラシーの構想の名残を認めることができるかもしれない。だが、第４章以降の議論において論じられる国教制度にアクティヴな知識人集団としての性格は皆無である。第４章以下の議論を通じて「道徳的品性」への望みを断たれた彼は、「正しい理性」＝「最良の自我」を脱階級的知識人としての「異人」の普遍的「人間性」に託すという第３章の構想を放棄し、最終的な解決を或る種の歴史的実体としての国家、すなわち歴史の中で「思想と教養の主流」＝「人間生活の豊かで大きな流れ」＝「国民生活の主流」（Ⅴ：245）を具現する現実的＝理性的な国家に委ねてしまう。すなわち彼は「正しい理性」＝「最良の自我」を現実の国家体制に実体化してしまったのである。
そして「最良の自我」を現実の国家体制に実体化することによって彼は一方で「結論」に見られる極めて反動的な国家観----「我々の目から見れば、支配者が誰であろうとも、国家の体制と外的秩序それ自体は神聖なものである」（Ⅴ：223）----を導くとともに、他方、自らの教養知識人としての主体性の基盤たるべき普遍的「人間性」をも掘り崩してしまう。
『教養と無秩序』の発表後、約十年間、彼は聖書の研究に没頭し、政治思想家としてはほとんど沈黙する。ここに或る種の挫折の如きものがあったことは恐らく間違いないだろう。デモクラシーという歴史的趨勢の中、中産階級の「道徳的品性」に完成という「人間の真の自由」への梃子を見出した「教養の使徒」（14）アーノルドは、まさにその「道徳的品性」についての考察を深めることによって、結果的に或る種の敗北を余儀なくされたのである。
以上、極めて不十分にではあったが『教養と無秩序』におけるアーノルドの思索を、その執筆順序に着目しつつ、内在的に再構成することに努めてきた。顧みると60年代の彼の思索は次の問題をめぐって展開されてきたことになるだろう。----すなわち、ピューリタン特有のいわば「どの世界にも根を下ろさず、従って人間生活の豊かで大きな流れに触れることのない」主観的な道徳性は、近代におけるデモクラシーという歴史的趨勢の中で果たして如何に機能するのか、という問題である。そして『教養と無秩序』は、こうした問題についての真摯な思索を通じて、60年代初めにおける彼のオプティミズムと普遍的「人間性」の理想が、60年代末におけるペシミズムと現実国家の聖化へと転化していく過程の、いわば忠実なドキュメントであった。
『教養と無秩序』の意義について、例えばＥ・バーカーはアーノルドが最終的に辿り着いた結論だけを取り上げて、その反動性を云々している（15）。そして確かに結論に関する限り、こうした批判は的を得ていると言えよう。だが『教養と無秩序』におけるアーノルドの思索の過程を辿ってきた我々にとって、このようなバーカーの理解は些か浅薄に感じられないだろうか。『教養と無秩序』に現代的意義があるとすれば、それはまさにそこで展開されいる思索の過程にこそ求められるべきではないだろうか。そして『教養と無秩序』でアーノルドが展開した真摯な思索、例えば主観的道徳性が近代社会において果たす機能についての考察は、現代においても、決して単なる懐古的な関心を引くだけのものではないはずである。
（１）R. H. Super (ed.), The Complete Prose Works of Matthew Arnold, 11 vols, The University of Michigan Press, 1969-77.（以下、引用に際しては巻数と頁数のみを示す）の完結以来、彼の多岐にわたる思想をその「教養 culture」概念に着目しつつ、統一的に捉える試みがなされており、例えば批評理論に重点を置いた J. Carroll, The Cultural Theory of Matthew Arnold, 1982 や宗教思想に重点を置いた R. apRoberts, Arnold and God, 1983 等、優れた成果が挙げられている。本稿はこうした研究史を踏まえつつ、彼の政治思想史を教養という観点からトータルに理解するための予備考察の試みである。尚、『教養と無秩序』に至る彼の思索を形成史的に辿る一つの粗い素描の試みとして拙稿「近代・教養・国家」（一）～（三・完）神戸大学大学院『六甲台論集』第40、41巻を参照。
（２）Cf. P. Honan, Matthew Arnold, a life, 1981.
（３）Cf. S. Cowling, Matthew Arnold and His Critics, 1974, pp.181-216.
（４）Spinoza, Ethica, Pars Ⅲ, Proposition Ⅵ, Ⅶ.（邦訳『エティカ』中公世界の名著30、195頁。）（cf. Ⅱ：331）
（５）Cf. S. Collini, Public Moralists, 1991, pp.91-118.
（６）W. H. G. Armytage, "Matthew Arnold and Richard Cobden in 1864: Some recently discovered letters," Review of English Studies, 25(1949), p.252.
（７）Cf. Kaufmann, Heinrich Heine, 1967, S. 105f.（邦訳『ハイネ』ミネルヴァ書房、1973年、91頁以下。）
（８）こうしたエイブラムズの所謂「自然的超自然主義」特有の歴史認識に関しては M. H. Abrams, Natural Supernaturalism, 1971.（邦訳『自然と超自然』平凡社、1993年）を参照。尚、アーノルドに独ロマン派が与えた影響に関しては前掲拙稿を参照。
（９）「消極的自由／積極的自由」に関してはバーリンの周知の議論 I. Berlin, "Two Concepts of Liberty," Four Essays on Liberty, 1969 （邦訳『自由論』みすず書房、1979年）を参照。
（10）アーノルドは明らかにヘルダーの所謂「フマニテート HUMANITA"T」概念を念頭に置いている。Cf. R. apRoberts, "Matthew Arnold and Herder's IDEEN," Nineteenth Century Prose, 16-2(1989), pp.1-20.
（11）H. Sidgewick, "The Prophet of Culture" (1867), in C. Dawson and J. Pfdordresher (eds.), Matthew Arnold Prose Writings: The Critical Heritage, 1979, p.224.
（12）R. Williams, Culture and Society 1780-1950, (1958) London: The Hogarth Press, 1987, p.123ff.（邦訳『文化と社会』ミネルヴァ書房、1968年、102頁以下）, B. Knights, The Idea of the Clerisy in the Nineteenth Century, 1978, p.132.）
（13）S. Collini, Matthew Arnold, 1994, p.79 より重引。
（14）Sidgwick, op. cit.
（15）E. Barker, Political Thought in England, 1915, p.199.（邦訳『イギリス政治思想史Ⅳ』岩波書店、1954年、172頁。）